全て、抱きしめたい




逸れたボールを取る気満々で思い切り走っていった。
意識の全てはボールにいっていたから、周りが何を言っているのかすぐに耳に届いていなかった。
あともう少しで手が届く、そんな場面の次に襲ってきたのは、どおぉん!という衝撃だけ。
「きゃあ!……拓真!?」
「おい!拓真!」
クラブメイトの呼ぶ声が遠くから聞こえたのが意識のある最後だった。



 何も見えていなかった空間から目を開けたとき、映った世界はオレンジ色に染まっていた。見るもの全てがオレンジ色で日常の世界とは思えなかった。
辺りは静かで自分がいたはずの体育館でもない。
 ここは……?
自分の体は仰向けになっている。目に映るのは天井とカーテン。普段なら白いだけの世界。
ふと、空気が動いたのを感じて、かすかに目だけを動かして見た。
そこには、トレーニングウエアを着た女生徒が一人ベッドの横のパイプ椅子に座っている。
さっきまでは膝元にあったであろう手が目元に寄せられていた。

 泣いてる……?

拭う仕草にそう思ったところでその世界は途絶えた。


 顔はハッキリと見えなかった。
だけど、誰だか分かっていた――
女子バスケ部の由衣だ。普段、軽口をたたきあっている仲だった。特に何という関係ではなく、たまにゲーム、CDや本の貸し借りをする位で。
試験前になるとノートを借りたりとかもしていた。
時々言い合いとかしたりするけど、後に引くことはなくさっぱりとしていた。
学校に行って部活に出れば必ず会えたし、何かを話すのにためらったりする事もなかった。

……そうだと思っていたのに。

 ここ数日間、同じ場所にいるのに顔を合わせることもなく話す事もなくなっていた。
それはあの日の放課後からだ。

 練習後の掃除のときだった。当番だった俺は用具室に道具を片付け終わり、扉の近くを通ったら、外からの声が聞こえてきた。
何だ?と思ってこそっと覗いてみたら、由衣と1年男子だった。
「……って貰えませんか」
語尾しか聞こえなかった。だが、様子から察するに何かを頼まれているらしかった。
「え、えーと、……その……」
由衣の困った声。
「今フリーだったら是非お願いします」
その台詞で何を言ったのか分かる。
強気の口調の後輩。1年の男子バスケ部。
練習のとき、俺にがんがんと責めてくる奴だ。強気な姿勢はいい事だと思っていたが、目にはもっと気にかかるものを燈していた。そうだ、敵対心。
「気持ちは嬉しいんだけど、……その、一応ね、すき」
そこまで聞こえたときだった。
もう俺の体はそこに出ていたんだ。
「お、由衣。丁度良かった。鍵持ってねぇ?」
二人ははっとしてた。
心の中では「ははん、ざまぁみろ」という気持ちがあった。
その時、自分のそれを知る由もなくただそう思っただけ。誰に対してとか、どうしてなのかとかは全く考えなかった。
由衣はすぐいつもの表情で言った。
「え?あ、持ってない。でも、壇上に見かけたけど?」
「えー?どこだよ?わかんねぇよ」
そう言って、由衣に鍵を取ってもらうようにした。
あの空気は放置のまま。
俺が先に体育館に入った後、由衣は後輩に何かを言っていた。
恐らく「ごめん」とか言ったんだろう。
 鍵を探すフリをしつつ、鍵を取ってもらうのを待っていた。
「ほら、ちゃんとここにあるじゃない」
「おー、そこか。悪い悪い。目に付かなかった。サンキュ」
鍵を受け取って扉に鍵をかける。あとは体育館から出てその扉に鍵をかけるだけだった。
後ろにいる由衣が、鍵を閉めているときにどこか神妙な声で言ってきた。
今まで聞いた事のない声で。普段とは違う様子で。
「……ねぇ、さっきの話聞いてた?」
それが俺の心臓をドキリとさせた。だけど、俺は知らないフリをして声を出した。
「さっきの話?……あー、1年の奴のとかよ?」
「あんたの後輩でしょ?」
「まぁ。……内容まではよく聞こえなかったけど」
「なんでそれで?」
どうして話の邪魔をしに来たの?そう言っている。
「別にどうだっていい事だろ?そっちだって困ってた様子だったし。どーせ、好きな人がいるっていって嘘言って断るつもりだったんだろ?由衣って好きな奴いなそーだもんなぁ。女らしくないって言うか、そーいうのが欠如してるっていうか。反対にいるって言われも面食らうけどな。え?お前が?って」
珍しく勝手に口が動いていた。
そういう事は特に意識した事なかったし、思ってもいなかった。
だけど、口はそう言っていた。
口と心が噛み合わない。頭が別のことを思う、そんな状態に陥っていた。
「でも、どーせ好かれるならもっとハンサムな奴だったら良かったのにな。はは、でも由衣じゃどっちにしろ同じだよな」
頭の中でもうやめろと言っているのに口は勝手に動く。
まだ何かを言おうとしていたら、足に由衣の蹴りが飛んできた。
それは本当に力のこもった蹴りだった。
「うわ!いってぇ!」
「この大馬鹿!無神経最悪男!!もう二度と名前呼ぶな!あほ男!!」
そう吐き捨てて行ってしまった……。
「なんだぁ?」
でも、蹴られて少しほっとしていた自分もいた。あの心と口のチグハグ感がようやっと止まったからだ。
蹴られたところを「おーいて」と声を漏らしながらさすりつつ、一人小さくなっていく由衣の後ろ姿を眺めていた。

 また次の日になったら、いつものように挨拶をして、何もなかったように適当な言葉を交わして、普段と変わらない日を送るのだと思っていた。

いや、思い込んでいた。

 けど、現実はそうではなかった。
みんなの手前、挨拶は返す。だけど、目は合わせない。顔は向けない。何かを話しかけても無視。全く持って俺は由衣の視界から遮断された。

 ……おいおい、俺も確かに言い過ぎたとは思ったけど、何もそこまで怒らなくてもいいんじゃねぇ?

由衣の背中を眺めつつ、心の中でぼやく俺。
「おいおい、とうとう愛想つかされたか?」
クラブメイトがそうこそっと言ってきた。
「そんなんじゃねーよ。元々あいつとはただ気が合うだけっての仲だし……」
「……へぇ?」
そいつの顔が意味ありげな笑みを止まらせたままそう言った。
それすら俺は知らないフリをした。



 はっきりと目覚めた意識に数秒だけぼーっとしていたが頭を上げて辺りを見回した。
でも判別するより先に訪れたのは頭の痛みだった。
「って〜〜」
思わず零れる声。頭はがんがんする。頭痛とは又違う痛みだった。
痛みを堪えながらも何があったのかと振り返る。

 ……部活の練習中だった。
見当外れの方向に一人が思い切り投げ飛ばした。丁度その方向には由衣がいて、こちらに背を向けているから気づいていない。

そうだ。やばいと思った俺は無理矢理にでも追いかけてボールをキャッチしようとしたんだ。

だけど、その途中で何も知らずに振り返り近づいた由衣。
俺は躍起になって体ごとボールに向かい、その勢いのまま壁に衝突したんだ。
驚いて声を上げて、俺の勢いに崩れた由衣。
ボールを由衣へ向う方向からちゃんと弾けたのか覚えていない。
激しい衝撃と由衣の俺を呼ぶ声。それから声を出した部員たち。
で、俺は気を失ったんだ。

 何やってんだろうな、俺。

不意にそんな事を思う。

 あんな場面になって気づくんだから。


仰向けになっていた体を横向きに変えた。すると、ぽさっと何かが落ちて目を向けると、濡れたタオルだった。額に置かれていたらしい。

自然と由衣の顔が浮かぶ。

 保健室の戸が開き歩いてくる足音に頭を向けたら、制服に着替えた由衣だった。
「あ、やっと目ぇ覚めたの。はいこれ。カバン預かってきたから」
俺のカバンをそこの椅子に置くと、そのあいた片手を俺が寝ているベッドの脇に置き言った。
「他の皆は帰ったから。拓真も着替えて帰んなさいよ?」
真っ直ぐと見つめてくる目は少し赤くなっているように見えた。
それでも強気を崩さないいつもと同じ由衣。
練習中はみつあみ二つに結んで帰るときはおろしている。ふわっとした癖毛の柔らかそうな髪。
目は由衣を見つめてた。
「なぁ」
「ん?」
「ちゃんとボールはじけたか?」
「……うん」
目を伏せてそう答えた由衣。
「そうか。なら良かった。顔にでも当たったら大変だからな」
目を伏せたまま由衣は何も言わずそのまま背中を向けると扉に向う。そして、一歩外に出たところで振り返り俺に言った。
「じゃあ私帰るから。……助けてくれて、ありがと。じゃあ、……これで」
そう言った由衣の目がいつもと違った。

ためらいと悲しみに曇った目。何か言いたげで、だけど突っぱねるような眼差し。

返事を待つことなくふわりと行ってしまった。
足音だけがしっかりと遠ざかっていく。
後は辺りの静けさだけが迫り来るようだった。

何かが、得体の知れないものが心を掠めていく。

 今ここでそれを受け入れたら一巻の終わりのような気がして、何かを頭で考えるより早く起き上がっていた。
この場所から走り出し去っていく由衣のところへ。
最初の一瞬はくらっとした。だけど、そんなものには構っていられないと奮起を翻す。

「由衣っ!」
俺に驚いて振り向いた由衣は足を止めた。
驚きに開かれたその目が俺を捉えた頃、俺は腕を壁に当て鳥かごのように由衣を捕まえた。
「な、何?」
「由衣、俺の事、好きなのか?」
そう言ったら、由衣の目が大きく開かれた。そしてすぐ怒りに満ちた目に変わり速攻で平手が飛んできた。
ばちん!という音の後に響く俺の声。
「いってー!」
「この、超大馬鹿!超無神経!もっと言い方ってもんがあるでしょ!!」
「だって俺余計なこと考えられないタチだからさ。……知ってんでしょ」
そう、自分で言うのも何だが今更な話だ。
「……う」
ピクリと引くつきを顔に見せる由衣。
「……なんでよ。なんでそんな事今聞くのよ」
負けん気でぎっと睨みつけてくる由衣。
「俺の横で泣いてたろ?」
それに一瞬素になった。だけど、すぐ顔に感情が溢れ出していく。顔は真っ赤になって。
「だからなんだって言うのよ!」
「で、どうなわけ?聞いてんだけど俺」
「否定と肯定にどんな差が出るっての?!」
「うーん、差、ねぇ。まぁ大してないかな」
「は?」
頬は赤いままの由衣。
今までこんなシチュエーションは有り得なかった。
俺は由衣をちらっと見ると、片手を由衣の後頭部に当てぐいっと引き寄せる。
初めて由衣に触れた時でもあった。
今までは体に触れないように注意していた。無意識に。物を借りる時に、指先にだって。
「なっ?ちょ、ちょっと!」
突然の俺の行動に動揺を見せる由衣の様子は面白かった。
「もう片手は開けといてやるよ。本気で嫌だったら逃げられるようにな」
真っ直ぐと見つめながらそう言った。
間近にある由衣の顔。初めてこんなにじっくりと見た。
そこで初めて思う。ああ、女だ。別に今まで男と思っていた訳じゃない。
ただ、気づいていなかった。
俺に向けるその瞳に。自分の気持ちにも。
ちゃんと見ていなかったから。

 こいつ、こんなに可愛かったっけ?

そう思いながら顔を近づけていった。

赤い頬の由衣。驚いた目を戸惑いに泳がせている。それが次第に俺の顔に向けられていく。躊躇った顔が段々と潤んだ瞳になり、もう目前に迫っている俺を見て観念した様にまぶたを落とした。

由衣の唇に自分のを重ねる。
二人きりの廊下で、重なり合った二人の影。

初めて触れる由衣の唇。その感触さえ可愛いと思う。

 顔を離して由衣を見つめる。
静かにゆっくりと開けていくその目に、俺の顔が映ると、由衣の顔は赤く染まった。
思わずそれに笑みがこぼれる。
すると、由衣はむくれた顔で言った。
「で、さっき言ってた差。大してない差って何?」
「うん?」
由衣を見下ろしたまま口元に笑みを浮かべたままでいたら怒った顔をして言う。
「ちょっとってば!」
「……そうだなぁ」
そう口にして、由衣の頭を引き寄せ俺の胸の中にくっ付ける。
そして、両腕で抱きしめて由衣の温もりを感じなら落ち着いた声で言った。
「俺が女の名前を呼ぶのは由衣だけってことかな」
「……この、ばか」
いや、本当はキスして迫るって事だったんだけどね。
素直にそう言ったら後が怖い気がして、もう一つの真実を告げておいた。

 この可愛くない台詞も、普段から突っぱねる態度も、俺は可愛いと感じる。
自分の中に閉じ込めてしまいたいほどに。

2007.9.14

girl's side : after


 special thanks!
イラスト:no color/ミチさま 素材:Egg*Station タイトル: