時の雫-風に乗って君に届けば

§5 世界の表情が変わるトキ


Episode 1 /4




 夏休みに入って、やたらとセミの鳴き声がうるさく聞こえるようになった。
陽射しもきつく、行楽地に行った訳でもないのに毎日の練習だけでこんがり黒く焼けてしまった。
 夏休みということで、学校に向かう時の格好は、部活のスポーツウエアだった。
校門を抜けた所で、ふと、圭史は思い出した。
 夏休みの課題に必要な本を借りなくてはいけない事を。
集合時間までには大分時間があるので、図書室へと向かうべく、下駄箱に足を向けた。
 高校に入ってから、この図書室に訪問したのは数えるくらいだ。全てが、授業の課題に必要とする時だけだった。

適当な場所に荷物を置き、目的の本を探し始める。
 夏休み中の図書室は静かだった。
奥への本棚に向かっている時、途中の本棚の間に、見間違える筈の無い人物を目にした。
 普段の生活と何ら変わりの無い制服姿で、本を探している美音の姿だった。

彼女はいつだって、自分の生活の中にこうやって不意に姿を見せる。

それがなんだか切なく感じて、圭史の顔には寂しげな笑みが浮かんだ。

 きっと、彼女には何も届いていないだろうに。

幾分、やるせなさを感じながら、圭史は用を済ませると部活へと向かった。

それから、練習で学校を訪れている圭史の目に、図書室へと向かう美音の姿は何度も捕らえられていた。


数日後、午前で終わりの練習を終えて、シャワーを浴びている時、隣の谷折が声をかけてきた。
「昼女子にマクドナルド誘われてるんだけど、一緒にどお?」
「相手誰?」
「伊沢さん」
「……なんでまた」

比較的大人しタイプの子で、自分から男子を誘うことが無いように思える子だった。彼女の周りにいる子は快活そうな子ばかりだったが。

「いや、フツーに誘われたんだよ。行くんだけど良かったら一緒にって」
「……まぁ、別にいーけど。で向こうは後誰来んの?」
「あー、それは聞いてなかったなぁ」
「……」

用意を全て終えた圭史は先に校門で待っていることにした。
昼の陽射しは強くてそれを黙って浴びているだけで元気がなくなっていく。

 −今日も図書室に来たのかな……−

そんな事を思いながら、圭史は一人ボーっと立っていた。

そこに、思いも寄らない人物から声がかかった。
「あれ?瀧野ちゃん。そんな所に一人で。練習は?」
「佳世さん……」

夏休み前に彼女はテニス部を引退した。部活で顔を合わす事があっても、以前のように話をすることはなくなっていた、元彼女。

「今日はもう終わって待ち合わせしてるんですよ。佳世さんこそ、この時間に?」
久々に言葉を交わす相田に、圭史は少しも動揺を見せずに返していた。
「私は希望者のみの講習にね。受験生だから。……彼女と待ち合わせ?」
「そうだったら、喜んで待ってるんですけどねー。相手は谷折なんで」
ため息混じりに言った圭史の様子に笑いを零した相田だった。

 微かな風が圭史の頬を撫でていったのを見送るように、圭史は校舎の方に目を向けた。
そこには大分距離があって小さく見えるが、校門に向かって歩いて来ている美音の姿があった。
 それに気付いた圭史の瞳が、ふ、と優しく揺らいだ。
そして、知らずと表情は柔和になり微笑が浮かんでいる。
 切ないけれど、嬉しく感じる日常の一コマに。

「……じゃあ、行くね」
どこか哀しげな声に、意識を戻されて今自分が立っている場所を思い出した。
「あ、はい。頑張ってください」
笑顔で圭史はそう言った。
それに笑顔で応えたものの、相田は行こうとせず何か躊躇っている様子だった。
それでも一歩踏み出した時、やはりそれを流すことが出来なかったようで、顔を向けると苦笑とも言える微笑みで言葉を投げた。
「瀧野ちゃんがいつも見てる子って、あの子でしょう」
確かに美音を指している。圭史は突然のそれに驚きの表情を隠せなかった。
「えっ?」
「気付いてないの?顔に出てるよー。そういう顔、私には見せてくれなかったもんねー」
そう言うと、手をひらひらと振って相田は行ってしまった。
圭史はたまらず顔を隠すように片手を当てた。
「〜〜〜〜〜〜〜っ、うそ……」
その時、圭史の頭に何故だか亮太の顔が浮かんだのだった。
それはまるで、観念しろよ、と言われてるようで……。


 美音が校門の手前数メートルまでに達した時、伊沢が急いだ様子で駆けて来た。
「春日ちゃーん!」
「あれ?いさちゃん、今日も部活……」
台詞を言い終わらないうちに、伊沢は美音に抱きついた。
「な、な、何?」
驚く美音に伊沢は必死な顔で言う。
「今日お昼誘ったんだけど、一緒に行く筈の子が無理になっちゃって、だから、一緒に行ってー」
「い、いーけど、でも私谷折君と面識って殆ど無いよ?」
「ひ、一人よりは全然いい」
「そーかぁ、私の言った通り頑張って誘ったんだー」
「うん、頑張った」
伊沢の頭を撫でて顔を上げた美音の目に、そこにずっと立っていたであろう人物が映った。目はちら…、と美音に向けられている。
「聞こえちゃったよ」と言わんばかりの圭史の顔が、美音の口をぽかんと開けさせた。
美音は声を出さずに「あ…」という口をして、それから「内緒だよ」と指を一本口に当てた。
それに圭史は微笑しながら頷いた。

「谷折君まだ来てないみたいだね」
伊沢に向かって美音が言うと、彼女は美音から離れ校門に目を向けた。
 そこには校舎に背を向けて立っている圭史の姿しかない。
伊沢の目に、彼の耳には何も届いていないように見えた。
美音がそんな彼女に気付いて圭史に声をかけた。
「瀧野君、誰待ってるの?」
そう言われて、圭史は彼女らに体を向けた。
「ん、谷折。今日はやけに支度に時間がかかってるみたいだよ」
「じゃあ、お昼一緒に行くんだよね?他誰か誘ってた?」
「うん、俺だけだと思うよ」
「そう、良かった」
美音は笑顔でそう口にした。

それに反応してしまう自分の心臓に、圭史はやるせない気持ちになった。

 谷折がやっと来て、駅の近くのマクドナルドへと行った。
女子二人は先に注文を終えトレーを受け取ると席についていた。
圭史はトレーを受け取ると、一人すたすたと行き、美音の向かいの椅子に座った。
後から来た谷折は、必然と伊沢の前に座る。
「春日さん、今日は生徒会で学校に?」
ポテトに指を伸ばしながら訊ねた谷折。
「うん、作成書類の提出と図書室に用事で。やっぱ私だと生徒会のイメージが濃厚なのかな?」
「いや、春日さんの話は亮太からよく聞いてるからさ」
それを聞いて、美音の表情から笑顔が消えた。
「……話って、どんなの?」
「えーと、仕事に関しては鬼のようで女のかけらも無くて、なのに女にも好かれて、自分が男だと思ってるんじゃないかとか、敵に回したら性質が悪い一番は春日さんだとか」
「……あの男、人のいない所で……。次会ったら殴ってやる……」
谷折の隣で、堪えきれず圭史が吹き出した。
「……瀧野君?」
硬直したままの美音の声に、笑いながら目を向けて口を開いた。
「あ、ごめん、我慢しようと思ったんだけど……、我慢し切れなかった。溝口ってそういう事言いそうだよな」
「あの男はいつだって口が減らない」
ポテトを食べながら一人怒った様子を見せる美音に、思い出したように伊沢が口を開いた。
「あ、そー言えば、春日ちゃん好きな人の話最近しないけど今はどーなってるの?」
突然の質問に、美音はポテトを喉に詰まらせ噎せている。
必死にジュースに手を伸ばし喉に流し込むと、呼吸を必死でしている。
「い、いさちゃん、何を突然……」
「え?話してる時、いつも女の子らしかったなぁと思ってね」
「む、昔の話!い、今は、……もーいさちゃん!!」
慌てる様子に、谷折が身を乗り出して聞いてきた。
「え?何々?誰?」
圭史は静かにジュースを飲んでいるだけだった。
「あーもうやめて〜、そういう恋バナは苦手なんだから」
紅くなった顔を両手で覆い隠し、美音はそう声を上げた。
「でも、春日さんならよく聞かれるんじゃない?好きなタイプは?とか」
落ち着かせるようにジュースを飲んでから美音は答える。
「いやぁ聞かれないよ?それに毎日毎日忙しく走り回ってる私に、そんな事聞いてきたら、睨みつけるよ」
「そーですか」
 圭史はひたすら静かに食べていた。
谷折に目を向けて、美音は楽しそうな笑みを浮かべて言った。
「じゃあ、瀧野君と谷折君の好きな人って誰?」
ピタ、と圭史の手は止まった。谷折も美音から目を反らした。
「……い、いない」
そう答えたのは谷折で、圭史は知らんフリをしている。
「そう」
美音は素っ気無くとも感じるくらいに、一言口にしただけだった。
そして何も無かったようにジュースを口に運んでいる。
そんな彼女に、彼らは静かに目を向けた。
 にやり、と意地悪な笑みを浮かべている美音。それは話題がそれた事に満足した顔だった。
それに気付いたのは圭史だった。

 ―あ、やられたな―


そのうち、谷折と伊沢が言葉を交わすようになり、自然と話が弾んでいった。
その様子を笑顔で眺めている美音に、自然と圭史は微笑を浮かべて見つめていた。

 そんな自分に気付いて、目線をトレーに転じると、なんだかやるせなくなってため息が零れた。

段々と自分の中から零れているそれに、拭いきれなくなっている自分が確かにいる。
それは、行き先の見えぬ道を垣間見たようで、たまらず又ため息を零した……。