時の雫-風に乗って君に届けば

§9 向かい風に煽られて


Episode 2 /9




 木曜日、朝はまだ垣間見えていた青空も、昼になると雲に覆われていた。
美音は図書室で栞と過ごしている。
「そう言えば、あのてこずっていた数学の問題どうなったの?」
「ああ、あれねー、月曜の放課後にここで解らなくて悩んでたら偶然瀧野くんが来てね、教えてもらったらすぐ解けたよ」
「へー瀧野君がねぇ」
美音の台詞を聞いて栞は何やら意味ありげな目を向けた。
それに美音は仄かに頬をピンクにさせてから目線を外し口にする。
「そう言えば次体育だったよね」
「あ、そうだ。春日ちゃん今クシ持ってる?」
「うん、持ってるよ」
そう答えながら、ポケットからクシを取り出して栞に渡そうとした時、何かがカシャン…と音を立てて落ちた。
何だろう? という表情を美音が浮かべた時、栞はそれに顔を向けて拾い上げていた。
「春日ちゃん落ちたのこれみたい。これ、キーホルダー?」
「あ、う、うん」
手のひらにのせたキーホルダーを栞がじっと見ているのを見て、美音は目を彷徨わせている。
「へー、かわいい」
シルバー細工のイニシャルのMと音符をもじっており、見ようによっては「Mio」と読めるデザイン。
栞はそれを見つめたまま言葉を紡ぐ。
「これって、男子の選択科目の、技術の課題のヤツだよね。クラスの子もカレシに作ってもらったりしてたから知ってるんだけど」
「あ、それはね、前に生徒会で亮太が話してて薫ちゃんがキーホルダー欲しいって言うので作ってあげる話になった時に、私もいいなぁって言ったら、亮太が丁度そこに来た瀧野くんに作ってやって、みたいな話しになって……」
どこか自信なさげにそう説明する美音に、いつもより少し意地悪な口調で栞は言う。
「で、瀧野君に作ってもらったんだ」
「うん、そう」
「私、そんな話聞いてないなー」
「いや、だってそれは学祭の準備期間の事だったから、忙しくて忘れてただけで」
手を机に置いて身を乗り出しながら言う姿に栞は素直に聞き返す。
「そうなんだ」
「うん」
そう言ったところで栞はキーホルダーを返し、何もなかったように髪をとかし始めた。
 栞のそんな様子を見て、美音は安心し手に戻ってきたキーホルダーに視線を注いでからポケットにそっと戻した。
 髪をとかしながらも美音のその動作を目にしていた栞は一人優しげな笑みを浮かべていた。
 栞が髪を結い終えると、二人は教室に戻るべく図書室を後にし始めた。

途中、庭に面した通路を通過中に、何気なく顔を向けた校舎と校舎の間にあるものを目にして美音は足を止めた。
その様子に気付いた栞が美音を呼ぶ。
「春日ちゃん?」
「ごめん、ちょっと待ってて。何だったら先行ってて」
「え?」
栞の返事を聞く暇もなく校舎の間へ急ぎ足で行ってしまった。
 美音のその後ろ姿を見ながら、栞は暫く待つ事にして近くの壁にもたれた。



 その校舎の間の奥に、女子が固まっている。
美音がそこに向かいながら数えただけでも10人近くの人数になる。
最初遠目からだったので見間違いかとも思ったのだが、やはり、その大勢で一人を囲んでいるようだった。
囲まれている一人というのはテニス部1年の松内。
大勢の方には、同じクラスの子の顔もちらほら見える。
それは前に圭史に聞いて欲しいと美音に頼んできた中にいた顔ぶれでもあった。
 そこに近づくにつれ、美音は表情を締めていき、そして静かに息を吐いた。

彼女たちの会話の内容が美音の耳に届いてくる。
「行き過ぎた行動が目に付きすぎるんだけど」
「迷惑してるのがわからないわけ?」
およそ個人となった時にそこまではっきり言えないであろうタイプの2年達が口々に言う。その大勢を相手にして一人だと言うのに臆する事無く松内は口を開く。
「当の本人に言われるなら解りますけど、他の人間にとやかく言われる筋合いはないと思います」
「うわーなまいきー」
「あんたみたいなの身の程知らずって言うの」
他にも罵る言葉が彼女達から吐き出される。
 それらを耳にした美音の表情も思わず歪んでしまうと言うのに、松内はその体に力を入れ、負けじと彼女たちを睨み付けている。
 だがそれはかえって逆効果にしかならない。まさに一触即発状態だった。
不気味な沈黙が漂ったかと思った次の瞬間、凛とした声がその場の空気を切り割るように通っていった。

「ごめん、ちょっとその子に用があるんだけど」

彼女たちの視線は一斉に美音に注がれた。
美音はそれに動じる事なく強い眼差しを返す。
「この子に用事があるって何の?」
「柔道部3年の松内主将の妹さんに私は用事があるの。そこの松内さんのお兄さんって血の気が多い人で熱血漢で妹が可愛くて仕方のない人だから、妹さんの方から頼んでもらいたい事があって」
「なんでお兄ちゃんの事知ってるんですか?!」
思わず出た松内の言葉にも、美音はにこりと笑顔を浮かべて言う。
「そりゃ知ってるよ。生徒会役員は各クラブに顔が利くので3年の方とも顔見知りです」
それを聞いて彼女たちはさっと表情を変えた。
「いいわよ、もう用は済んだから」
「行こう」
蜘蛛の子を散らすように彼女たちはその場を去っていった。

いなくなったのを見て、美音は小さく息を吐いた。
目は彼女たちに向けたまま、動きを見せない松内に口を開く。
「暫くは一人で行動しないほうがいいよ?あの子達テニス部の追っかけみたいなものだから。 じゃあ、お兄さんによろしくね」
そう言い終えてから浮かべたままの笑顔を向けてから、何も反応のない松内を見てその場を歩き出した。

 栞がまだ待っているのが目に映って急ぎ足で進みだした時、後ろから声が飛んできた。
「待ってください!!」

美音はその言葉にゆっくりと足を止め、「何?」という顔を向けた。

 ぎゅっと力を入れたままの表情で彼女は、離れた筈の距離をある程度まで縮めると、強い意思が宿った目を真っ直ぐと美音に向けた。
「私、あなたに助けを求めた覚えもないし、言った覚えもありません!」

その台詞に一瞬驚いた顔をした美音だったが、すぐ微笑を浮かべて言った。
「うん、求められてないよ。気にしないで。私の独断でした事だから」

松内の瞳に戸惑いの色が見えた。

美音はそれを見て、ふっ…、と笑むと今度こそ栞の所へと走っていった。

 残された松内は、顔を下に向けぎゅっと手を握り締めている。
さっきまであった賑やかな空気は、今もう消え去っていた。





 放課後、明日行われる球技大会の最終打ち合わせが行われていた。
生徒会室の横、会議室ではいつもより多い人数が入り乱れている。
亮太の所にはバレー部が、快の所には卓球部、丈斗の所にはバスケ部、美音の所には野球部及びソフトボール部、そして薫の所には実行委員が集っていた。各部はその種目の審判を行ってもらうので参加種目との時間調整に少々時間がかかっているようだ。
 あちらこちらから声が飛んでくる中、一番に終えたのは実行委員の集まりだった。
次に美音と亮太が打ち合わせを終え、生徒会室に戻っていた。
「あー疲れた。で、1年二人はまだかかってんのか」
自分の席に着いて伸びをしながら言った亮太。それに薫が答える。
「そうみたい。まぁ野口君は相手が相手なだけにわかるとして」
「藤田のヤツは話が脱線してそうだしなぁ。春日、ちょっと二人の様子見て来いよ」
投げられた台詞に、頬杖を突いて机上を眺めていた美音ははっとして顔を上げた。
「は?……あぁ、いつまでも手を出してちゃ本人の為にならないでしょ。ここは一つ心を鬼にしてやり遂げるのを待ちましょう」
「そう言うと聞こえはいいが、単にバスケ部だから行きたくないんだろ?」
「ぴんぽーん、ご名答―」
それを聞いて片眉を上げて呆れたような顔をする亮太。
「お前なぁ、いつまでも曖昧な態度とってないで、いい加減どうにかしたらどうだよ」
「どうにか、って、何をどうすればいい訳?それに、別にそんな態度取ってるつもりは」
少しむっとした表情でそう返した美音。
その様子を見て薫が席を立った。
「まぁまぁ、とりあえず藤田君の様子見てくるから」
「あ、ごめん」
美音がそう言うと、薫は笑顔で答えて生徒会室を出て行った。

「はぁ……」
気落ちした美音のため息に、亮太は片眉を上げた顔を向けた。
「……どうしたんだよ」
「んー?別にぃ……」
そう言いながら頬杖を突くと再び机上に目を向ける。
どこか虚ろなその瞳は仕事をしてる時のものとは遠く離れている。
亮太は何も言わず視線を外すと自分の仕事に顔を向けた。
 それから暫くすると、「ふふっ……」という笑みを零した美音の声が耳に届いた。
ちらり、と目を向けると、美音はふ…、とした笑みを浮かべている。
だが、それはすぐ消え失せ、曇った表情になった。
そして両手で頭を抱え込むと深いため息を吐いている。
「……春日、お前かなり変だぞ?」
「ほぇ?」
「……すごく変だから」
呆れを通り越し一抹の不安を感じた亮太だった。
「いやぁ変わってるのは前からだしさー」
目を遠いどこかに向けて言うその姿はやる気のなさが見える。
「ああ、それはそうだったな」
「おおい!納得するところじゃないから」
「そーかそーか」
右手はシャープペンを動かしながら口にした亮太。
 美音は参った顔をすると、生徒会個人用ノートを開き自分の予定に目を向けた。
「あーあ、今日はもう帰ろうかな……」
美音らしかぬその台詞、まだ最後の生徒会メンバーでの打ち合わせが済んでいないのに。さすがの亮太も手を止めて美音に顔を向けた。
美音の浮かない顔に不意に亮太の顔も真面目なものになった。

美音が座ったままの椅子を引いたとき、亮太はシャープペンを机に置き椅子から立った。
そして、美音の所に行き、迫るように片手を机に置いて今までになく至近距離で美音を見つめる。
「な、なに?」
頭を退けながらうろたえを見せる美音に亮太は余裕の笑顔を浮かべて口を開く。
「なんか慰めて欲しい事でもあんのか?」
「え、え?な、なんでもない。え、と、予定でも書こう」
らしかぬ亮太の表情と行動。そしてその視線から逃げるように椅子から立ち、そのまま後ろにあるホワイトボードに体を向けるとペンを取った。キャップを取ろうとした所で、亮太の手が伸びてきてそれをひょいっと取り上げられた。
「あ、ちょっと……」
取り上げられた事に思わずそう声を上げて顔を向けた美音。
その次の瞬間に亮太の手が、美音を閉じ込めるようにホワイトボードに貼り付けられた。丁度それは美音の肩の上。
 亮太は美音に対して、そういう行動は決してとった事がなかったのに。
美音は思い切り驚きの顔を浮かべている。
「なんか聞いて欲しい事あるんだろ?」
「……な、ないっ!っていうか、離れてよ!!」
体を背中のボードにぴたりと貼り付けながら美音は訴えた。
そんな美音に亮太は目を細めると今までにない至近距離で言葉を放つ。
「ふーん。……トキ既に遅しつーっ事知ってるか?」
「こ、言葉は知ってるけど……」
必死で、これ以上隙間のない背に押し当てて逃げようとする美音に、亮太はじりっと足を近づける。
「こういう体勢になったら男のブレーキをアテにすんなよ?」
「な、何言って……」
みるみる美音の顔が蒼ざめていった。
頭の中が真っ暗になった次の瞬間、人の気配がし生徒会室の扉がガチャ、と開き、……そして半分ほど開いたところでその動きは止まった。

「……なに、いちゃついてんの?」
その状況を目にしたのは圭史だった。あまりのその光景にフリーズしかけの様子。
「違う違う違うっ!い、いちゃついてなんかない!!断じて違う!!」
顔を赤くして必死で横に振る美音。
亮太は手を外し離れると堪えきれず腹を抱えて笑い出した。
「あははははははっ!はーっ、面白かった。ははは!あー腹いて。
悪い悪いちょっとしたタチの悪い冗談だよ」
そうして向ける亮太の表情は本当に楽しそうな顔をしている。
「な、な、……こンのっばか亮太!」
美音はそう声を上げると、亮太のわき腹にパンチを放り込み、つかつかとドアに向かって行く。
「いてて、おーい、どこ行くんだよー?」
「会議室っ!!」
そのまま力任せに扉を閉めて美音は行ってしまった。

一人亮太は痛みを堪えながら大笑いをしている。
「あはははは、あーいてて。なんか元気なかったからおちょくってやったら、反応が面白くてなぁ。……気ぃ悪くすんなよ?」
最後の言葉は笑いながら横目で圭史を見遣り言った。
圭史は表情のない顔をしている。
「……これ、明日の担当変更分。じゃ俺部活行くから」
それだけ言って圭史は生徒会室を出て行った。
閉まったままのドアを見つめたまま、亮太は「ふっ…」と笑みを零した。

 荒立つ心を抑えきれず圭史は大股の早足で廊下を行く。それは表情にも表れていた。沸騰寸前とも言えるその怒りに呑まれていた。
暫く進んで行ってから荷物を持っていない事に気付きUターンし、変わらぬ感情のまま歩いていく。
そして、ドアが開いたままの会議室に入ろうとした瞬間、丁度出て行こうとしていた生徒と正面衝突したのだった。
その衝撃に圭史もさすがにすぐ声が出なかった。
「あいた〜〜」
その声を聞いて、はっと顔を向けた。圭史はすぐさま声をかける。
「ごめん、大丈夫?」
「あ、うん、ごめん、前方確認しなかったから」
「こっちこそ」
衝突した相手は美音だった。
美音の髪は少々乱れていて、後ろ髪が一束前に来ている。
それを見た圭史はそっと手で摘むと後ろへ流した。さらりとして柔らかい髪の感触が圭史の心に浸透する。
どきっという表情をした美音に、あれだけ荒立っていた心が不思議と落ち着いていく。
「あ、ありがとう……」
恥かしげに目を伏せた美音を見て、圭史は微笑み言う。
「ううん。今日は何時くらいまでかかる?」
「今日はそんなにかからないはず……。全員揃ったら明日の確認して終わりだから。残りの二人ももうじき終わりそうだし」
「そっか。……じゃ、また」
「うん、またね」
顔を上げた美音は笑顔でそう言うと、片手で小さくバイバイと手を振る。
圭史はそれを見て笑顔になると返事をするように小さく手を上げてから美音と別れた。
 美音はそのまま生徒会室に入って行き、圭史は会議室に入り自分の荷物を待つと再び会議室をでた。先程まで荒々しかった足取りも、今はただの早足に変わっている。
その廊下の曲がり角まで来た所で生徒会室のドアが開き再び美音が出てきた。
どうやら何かを取りに戻っていたようだ。美音のそんな顔も、もう仕事の事しかない、という表情だった。圭史の顔に微笑が浮かび、そのまま部活へと向かう。

 暫くして亮太が一人でいる生徒会室に戻ってきたのは美音だった。
部屋に入って顔を向けた亮太の顔を見るなり、美音の顔は思い切り不機嫌なものになった。亮太の口からは思わず笑いが「ぷっ」と吹き出た。
すると美音は一層不機嫌な顔になって無言で椅子に座った。
 亮太は「やれやれ」というため息をしてから、手にシャープペンを握ったままで言葉を口にした。
「男が少しでもその気になったら逃げられないのが分かっただろ。
世の中には人畜無害な奴もいるだろうけど、自分が男と思っていない奴の前でも油断するなよ?特にお前が今警戒してる、隣の部屋にいる奴とか尚更」
それを聞いた美音の顔から、さっきまでの不機嫌なのが忽ち消えていった。
反対に複雑な表情を浮かべている。
「亮太、性格わるいよ……」



「じゃあさようならー」
「はーい、明日もよろしくねー」
美音が挨拶にそう答えると、最後の一人が会議室を出て行った。
乱れた所を整え、ホワイトボードもきれいにして窓の戸締りも確認した。そして、ふと目を向けた先に置きっ放しになった袋に気がついた。
「忘れ物?」
手に持って袋の外側を見ても持ち主の名前はない。
「すいません、中見させてもらいます」
いない相手に向かってそう言うと美音は袋を開けて中を見る。中は技術科の道具が入っているようだった。
「……瀧野くんの」
持ち主の名前を発見して、思わず美音は口にしていた。
今の時間なら、まだ部活をしているだろう。
美音はその袋を手に持ち直すと、会議室を出て鍵を閉め生徒会室に戻った。
 中に入りそのまま自分の席に着くと、自分の荷物と一緒にそれを置き、机の上にノートを広げた。そうしてメンバーが揃うと本日最後の仕事、明日の確認が始まる。
明日の進行と役割の確認だけなので10分ほどで終わった。
ぞろぞろと生徒会室を出て下駄箱に向かう。
靴を履き替えた所で美音は薫に声をかけた。
「私、ちょっと用事あるから向こう行くね」
「うん、又明日ねーバイバイ」
「ばいばい」
美音ははにかんだ笑顔を向けて挨拶を返すと小走りに校門と反対の方向へ向かっていった。
その足取りも5メートルほど進んだ所でいつもの歩くスピードになり、落ち着かせるように息を吐いてから顔を正面に向け向かっていく。
 グランドを半分ほど過ぎた所で教員室に向かっているであろう谷折に出くわした。
「あ、瀧野くんいる?これ忘れていったみたいなんだけど」
放課後にグランドにいる美音を見て「どうしたんだろう」という表情をしていた谷折は、美音の台詞を聞いて笑顔になって口を開いた。
「コートにいるから渡してやって」
それだけ言うと谷折は行ってしまった。
美音は少し躊躇った顔をしたが、コートの方に目を向けると再びゆっくりと歩き出した。
コートの外では女子テニス部がちょっとした余興に25メートル競走をしている。
その中には昼休みに会った松内もいた。
 美音はふ…、と微笑を浮かべると少し懐かしげな表情を浮かべている。
「あ、春日ちゃーん、どうしたのー?」
そう声をかけてきたのは、美音と同じクラスの川浪だった。
「あー、ちょっと男子の方にお届け物―」
二人はバイバイと手を振り合った。
川浪が競走の方に目を向けた時、美音は自分に向けられている視線に気づいた。
 スタート地点に立っている松内が鋭い目を向けている。
あれに見えるのは敵意。美音は苦笑すると顔をテニスコートの方に向けた。
「スタート」という声が聞こえたかと思うと、スタート地点に立っていた5人が一斉に走り出した。美音がそちらの方へそっと目を向けると、その中で1着をとったのは松内だった。美音はまた微笑を浮かべて目をゆっくりと戻した。

 フェンスを間にコートにいる男子テニス部の前で美音は足を止めた。
入り口に入って大きな声で呼ぶ事が躊躇われ、美音は一番近くにいた一人に声をかけた。
「あの、瀧野くん、は?」
背中から聞こえた声に、笠井は顔を後に向けた。それが生徒会の副会長だと確認すると目を少しだけ見開いていた。
「いるよ、ちょっと待って」
再びコート内に顔を向け、部員の中から圭史を見つけ出すと、その方向向かって声を出した。
「瀧野―!」
圭史が顔を向けたと同時に、笠井は親指を立てた手で後ろを指した。
 名前を呼ばれて顔を向けた圭史は、すぐ美音の姿が目に入った。
笠井が美音を指しているのに気づくとすぐコート入り口に足を進めた。
出る間際にフェンスにラケットを立てかけ流れるように美音の所へ向かう。
「これ、会議室にあったから」
差し出された袋に圭史は「あ」という顔をした。そして笑顔を向けて口を開く。
「忘れてた、ありがと、わざわざここまで持ってきてくれて」
「ううん、いいよ。気になったから」
「今から帰るの?」
「うん」
「そっか、気をつけてね。これありがと」
美音はそれに返事をするように笑顔を向けて、そしてコートから注がれる視線に気づいた。
なぜか注目されている。
その雰囲気に圧倒されるように目を伏せると、ちらっと圭史に目を向けると気恥ずかしそうな微笑を見せて「じゃ……」と小さく手を振りその場を後にした。
 圭史はそれに「うん」と答えて笑顔で小さく手を上げていた。
美音の後ろ姿を目にして、圭史はコートに体を向け戻ろうとして足を止めた。
一斉に注がれている視線に閉口したのだ。
「……何なんだよ、お前ら」
圭史が堪らずそう言葉を洩らすと、皆何もなかったかのように練習に戻っていた。



 その様子を始終見ていた人物が女子部に一人。団体の端に位置していた。
その怖い表情に2年が口を開く。
「もういい加減瀧野君にちょっかいだすのはやめときなよー」
「そーだよー。ここ最近になって大人しくなってるから何も注意せずに済んだけど、あのままだったら呼び出ししていたよ」
「同じテニス部で迷惑かけられないからね。夏には1年の一人が峯君に迷惑かけてたでしょ」
松内は顔をふいっと背けると不機嫌に声を出した。
「別に迷惑かけようとしてた訳じゃないです……」
「瀧野君にはあまり近づいちゃ駄目よ」
「そう、それが女子部暗黙の了解」
「じゃあ……、あの人はいいっていうんですか?!」
「誰の事?」
そう一人が聞いた時、走り終えてそこにやって来た川浪が口を開いた。
「何?どうしたの?」
「あ、ナミ。……」
さっき話した事を川浪に話すと松内に尋ねた。
「で、誰が他に瀧野君に近づいてるって?」
「……さっきも来てたじゃないですか。ここまで」
「春日ちゃんのこと?」
「そうです。生徒会の人」
「春日ちゃんは元々委員会や何やらで関わりがあるから。それに瀧野君の方が春日ちゃんに特別な感があるし。まぁ相手が春日ちゃんだしねー」
「あーそう言われればそうだね」
川浪の言葉に他の一人が同意する。
悔しそうな顔をして松内は口を開く。
「あの人、いろんな人と噂があって、誰にでも笑顔振りまいて皆にいい顔して本当はなに考えているのか分からないだけじゃないですか。私あの人に負けたく、ないです……」
「春日ちゃんはそんな人じゃない。皆に差別なく優しい。時々身の程知らずな子が春日ちゃんの事を陥れようとした事もあったけど、皆返り討ちにあって大人しくなったよ。それに1学期校内で不審者に襲われそうになった子を身を挺して助けられる人だし」
「あーそう言えばそんな事もあったね」
「反対に危ない目にあった春日ちゃんを助けたのが瀧野君。生徒会でも柱となって責任を果たして、勉強も両立させて、そんな人に私らが敵う訳ないでしょ」
「そうだよねー。それに春日ちゃんてそういう事鼻にかけたりしない人だしね」
「しっかりしてるのかと思えば意外に天然だったりして」
「そう言えばこの前、クラスの新田さんたちが春日ちゃんに頼んでた話!」
「好みのタイプ聞いてくれってやつでしょ?」
「その後その後」
「あー写真撮ってってやつ?」
「そうそう。あれ、春日ちゃんは困って断ろうとしたんだけど、しつこく頼んだらしいよ」
「そんでどうなったの?」
「そういう事瀧野君嫌いだったみたいで新田さんたちに怒ったんだって」
「へー」
勝手に話が盛り上がっていくのを見かねて、川浪は呆れた顔をしながらも言う。
「こらこら、いい加減余計な話はやめよう」
「はーい」
 川浪は、納得いかない顔をしている松内に目を向けると、静かに言った。
「私、同じクラスだから知ってるけど、春日ちゃんは男子にはキツイよ。それでも男子にそこそこ信頼あるし、各グループのリーダーは一目置いてるし、それは各クラブでも一緒。あんまりあからさまに敵意見せてると松内さんが損するよ」
 松内は手をぎゅっと握ったまま、顔を上げずにいた。
彼女の中には怒りに似た感情が渦巻いていた。