時の雫-風に乗って君に届けば

§9 向かい風に煽られて


Episode 7 /9




 今日も練習を終えて家に着いた圭史は、履き慣れたスニーカーを脱ぎ玄関に上がると「ただいま」と声を出してから2階に上がった。
階段の隣が弟の部屋で、その向かいが兄の部屋だ。
短い廊下を真っ直ぐに突き進み奥にある部屋が圭史の部屋だった。
部屋に入ろうと扉を開けた時、珍しく家にいる兄、功志が部屋から顔を覗かせ圭史に声を放った。
「おーい、けい」
圭史はそれに素直に振り向いた。

功志は首に巻かれたマフラーを目にして口にする。
「お、いいマフラーしてんな」
「あ、うん……」

そう返事をした圭史のぎこちなさに気づきつつも、功志は用件を言う。
「映画の券2枚2千円でいらんか?クリスマス前に振られた俺には不要になった物だ」
「兄貴、俺にどうコメントしろと?」
「うーん、そう言われるとつらいな。……で、この券は今話題になってるやつで1月いっぱいまで使えるよ」
出された券を受け取って圭史は眺めている。
書かれている文を読んでみて、どこかで聞いた事があると思った圭史は数秒考えてみて思い出した。
いつだったか、美音が、面白そう、見に行きたいと言っていたものだった。

「……うん、頂戴。あ、そうだ、24日から友達泊まりに来るけど」
「ああ、クリスマス期間は合コンで殆どいないから、騒いでも平気だよ」
「……がんばって」
振られて速攻で相手探しに行く兄に、それ以外の言葉が浮かんでこなかった圭史だった。



 ―マフラーのお返しにあげよう。俺はどうせ部活三昧だし―

 受け取った映画の券を机の引き出しに仕舞ってから、圭史はそう思った。





 冬休み、クリスマスイブの練習試合を終えた圭史は、谷折を連れて帰宅していた。
部屋にこもって何をしているかと言えば、冬休みの宿題だった。
圭史は自分の机で、谷折は簡易テーブルでそれぞれ違う科目をやっている。
「なぁ」
テーブルの上の問題集を眺めながら、谷折は声を出した。
「……なんだよ」
圭史も机に向かったままで返事をした。
「なんでクリスマスに部屋に二人っきりで宿題してんの?俺たち」
「……お前が担当決めてやろうっつったんだろ」
 そして部屋には、辞書を捲る音やシャープペンを滑らす音だけが聞こえている。
静かな時間がしばらく過ぎると、また谷折が口を開く。
「なぁ」
「……んだよ」
「ドーナツ食いたい」
「ねーよ」
「無性にドーナツ食いたくなった」
イラツキを少なからず見せる圭史の反応に全く動じない谷折。
「……で、どうしろと?」
「食べに行こうぜ、ミスド。ミスドのドーナツがくいたーい」
わめき立てる谷折に、手に持っていた物を机の上に放り投げて呆れたように言う。
「分かった分かった。じゃ用意しろよ」
「おー」
そう返事をして腰を上げた谷折はとっとと出かける準備を終えていた。
用意をしようと椅子に座ったまま方向を半回転した圭史は、そんな谷折を見て何か言いたげな目を向けた。その目には少々怒りも含んでいる。
だが谷折はすっ呆けた顔をして圭史の準備が終えるのを待っていた。



 家を出て、駅に向かう途中の大きな通りを今日は曲がり、その道を歩いていた。
「春日さんちってどこらへんにあるの?」
「もう過ぎたよ。あっちの方向」
「ふーん、結構近い?もしかして」
「近い方、だな。俺んちから徒歩10分くらいだから」
「へー。じゃホント近くじゃん。暇な時とか近くまで散歩に行ったりとか、わざわざそっちの道選んで出かけてみたりとか?」
「するかよ。そんな事してたら、俺怪しいヤツじゃん」
「へー、してないのかぁ」
じーっと圭史を見る谷折に、嫌そうな顔を向けて言う圭史。
「……んだよ、その顔は」
「いやー?別にー?」
「こンの……っ」
谷折の口調に苛立ちを感じた圭史は蹴りを食らわせたのだった。

 そして、その光景を目にしていた人物から声が飛んできた。
「お前ら仲いーなぁ」
その声に顔を向けると、立っていたのは貴洋だった。
「いや、今確かに俺は蹴られてました」
それは違うとばかりに主張した谷折だった。
 貴洋は笑みを浮かべると圭史に言う。
「お互いクリスマスに淋しいもんだな。お出かけか?」
「あぁ、うん。こいつがミスド行きたいってうるさいから」
「俺は別にうるさくしてません。行きたいという意見を述べただけです」
そんな谷折に圭史は鬱陶しいとでも言うような目を向けた。

「はは、充分仲いいじゃん。……で、その後調子どう?」
何かを含んだ物言いに、圭史は少々言葉を詰まらせてから答える。
「……別に何も」
「あ!どこで見た顔かと思ったら、学祭で練習試合した春日さんの幼馴染の人」
ぽん、と手を叩いてそう言った谷折に、貴洋は「はは」と笑いを零した。
「で、どっちのミスド行くんだ?」
「いや、別に決めてない」
「そっか。……じゃあ、北店の方に行ったらまだこの時間なら間に合うかもな」
「何に?」
その谷折の問いに、不敵な笑みを浮かべたまま言う貴洋。
「行けば分かるよ。ほら、北店の割引券やるよ」
「……」
様子を伺う圭史をよそに谷折は笑顔で言う。
「おーサンキュー」
「じゃあな」
割引券を谷折に渡して貴洋はその場を歩いて去って行った。

 意味ありげな表情を浮かべていた貴洋を怪訝な顔のまま見送る圭史。
谷折は特に気にする事もなく北店に向かおうと言う。
そんな谷折に呆れたように軽く息を吐くと、圭史はその方向に足を向けた。

「散歩にしては少し距離あるんだけど……」
そんな圭史の呟きにも谷折は動じていないようだった。



 何の変哲もないミスタードーナツの店だった。
二人は自動扉を通り店内に足を運んだ。
北店は出来てまだ数年しか経っていないので南店より中が広く綺麗な装飾だった。
トレーをもって自分で取っていくようになっていた。
圭史がトレーを持ち、谷折がドーナツを取っている。
「こんなもんかな」
と自分の分に甘そうなものばかり4つ選んでいる谷折に、甘すぎないものを2つ選んだ圭史は言う。
「お前、マジでそれだけ食うの?」
「おう。ここで食べる分。夜食の分は後で買うから」
「……マジ?」

前に並んでいた客が開いたレジ前に動いてすぐ声が飛んできた。
「次のお客様どうぞー」
聞きなれた声に疑問を感じつつ前に進んだ二人は店員に顔を向けてみて声を上げた。
「あ!」
はもった二人に、店員も声を洩らした。
「……あ。」
そこの制服を身にまといレジを担当しているのは、美音だった。
驚いた表情のまま凝視している二人に、美音はとりあえず笑顔を向けて言葉を放った。
「い、いらっしゃいませ」
その台詞に我に返った圭史はトレーをカウンターに置いた。
まだ少し戸惑いを感じている圭史の横で谷折は笑顔で言う。
「化粧してるからすぐ分からなかったよ」
 それは本当にナチュラルメイクでケバイ印象は受けなかった。
でも明らかに学校で見る雰囲気とは違っていた。
圭史は戸惑いを感じながらも言葉をかけた。
「……バイト、してたんだ」
「あ、うん。まさかこっちに来るとは思ってなかった」
美音も戸惑っているらしく何やらぎこちなさを感じる。
「あ、うん、ちょっと気が向いて」
「え、と、今日はお召し上がり、ですか?」
「うん、ホットコーヒーと、谷折は?」
「俺カフェオレ。……バイト今日は何時まで?」
「え、と、あと10分だけど……」
「じゃ終わったらおいでよ。是非っ」
最後の言葉は強い口調で言った谷折に、美音はうろたえながら返事をした。
「う、うん」

 美音は手馴れた様子でレジを打ち飲み物を用意するとトレーを手渡した。
それを圭史が受け取り席に持っていく。
その後を着いて行きながら谷折は美音に言う。
「ちゃんとおいでよね」
「う、うん」
うろたえたままの美音を置いて、二人は適当な席に着いた。
「……あー、びっくりした」
そう呟きながら椅子に座りジャンバーを脱いでいる圭史に、笑いながら言う谷折。
「だろうね。春日さんの幼馴染がああ言ってたから、何かあるんだろうとは思ってたけど、まさかバイトしてるとは思わなかったよな」
「うん……」
そうして、圭史は思い出したように美音のいる方にと目を向けた。
 レジから離れ、店員の女の子と笑顔で話している。
何か問われた事に手を横に振って否定しているようだった。
 大方、どちらかがカレシ? とでも聞かれて、違うと言っているのだろう。

 ―あ、自分で言って落ち込んできた……―



「バイトの人でかっこいい年上の男とかいたりするんだよなー」
谷折はそう言うと、くるっと振り向いて店員のいる奥の方を眺めた。
そんな様子に圭史はチラッと目を向ける。
一通り見渡してから谷折は向きを戻し、ドーナツに手を伸ばしながら言った。
「別にそんなに大した事なかったわ」
「そ。……それより、伊沢とはあれから何もないのか?」
思いがけない台詞に、ドーナツを持つ手が止まった谷折。
「何かあったら俺は平常でいられません」
「……確かに」
谷折の言葉に妙に納得した圭史だった。

 目の前でぺろりとドーナツ2個を食べ、躊躇うことなく3個目に手をかけている谷折に圭史は感心しながら口を開く。
「お前ほんとにそれ全部食うのな」
「おう、そーだよ」
 こっちに向かって来る人物に気がついて顔を上げると、バイトを終えた美音が片手に上着とカバンを、もう片手にアイスレモンティーをグラスのまま持って来ていた。
足がすらりときれいに見える形の黒地のジーパンに、水色のV字に大きく開いたセーターの中に白のレース模様のハイネックのカットソーという私服姿だった。
「終わったよ」
顔を向けた圭史に美音は笑顔で言った。
「うん、お疲れ」
圭史はそれに返すと、椅子から立ち上がり谷折の横に移った。
それを見てドーナツを口に入れたまま谷折は言う。
「いっひょにすはったらひーのに」
もぐもぐと口は動かしているのに体を動かそうとしない谷折の足に蹴りを入れて奥の席に行けと促した圭史。
谷折はジト目を向けてから奥の椅子に移った。
 口の中身を飲み込んでから谷折は美音に話しかける。
「私服って初めて見たけど、以外にカッコイイ感じの着こなしなんだね」
「うーん?どういう服装すると思ってたの?」
「そうねぇ、……あんな感じ?」
向こう端に座っている大学生くらいの女性を指差して言った。
美音はそれを見てすぐさま反論する。
「あー、しないしない。ピンクフリル系はしない。絶対しない」
「なんで?可愛いよきっと」
「私より妹のほうが似合って可愛いっていうのもあるし、私の好みじゃないから」
「ふーん、可愛い妹いるんだ。一人?」
「うん、そうだよ」
「じゃあ、紹介して♪」
「ダメ」
谷折の言葉に美音は間髪いれずに返答した。
「えー?なんで?」
「谷折君じゃダメ。うちの可愛い妹いじめそうだもん」
「えー?俺女の子には基本的に優しいよ。特にそれが可愛い子だったらもう格別」
口をもぐもぐと動かしながら言った谷折だった。
「じゃあ余計ダメ。違う意味で心配になるから」
「えー?……瀧野見たことある?」
「え?……何回かある、かな」
「可愛い?」
知りたそうな顔を向けている谷折。
美音はじっ…、と何か言いたげな瞳を向けている。
それにうろたえながらも圭史は言葉を口にする。
「え、と、はっきり見た訳じゃないからあんまり覚えてないけど、そんな感じはした」
「ふーん。そんなに可愛いんなら俺のカノジョになってくれないかしら」
「ダメ。私が許さないです」
「えー?何でそんなにダメなの?」
「ダメダメ。……可愛い子でいいんなら、私の友達でもいいじゃない」
「友達?どんな子?」
そう聞かれて、ニコリ。と笑顔を浮かべて美音は口を開いた。
「ほら、同じテニス部で、隣のクラスの、可愛い子」
ドーナツを口に入れたまま、谷折は一瞬動きを止め、美音の言いたい事を理解してしまうと突然噎せだした。
そんな様子を見て、圭史は美音に言葉をかけた。
「いつからここでバイトしてるの?」
それに美音はどこか落ち着かない様子で答える。
「えーと、1年の夏から。1学期の雨の日に傘を貸してくれた日もバイトだったんだ」
「そうだったんだ。……そう言えばさっき他の子に何か慌てた様子で手振ってたみたいだけど」
「あ、うん。二人がかっこいいから紹介してって言われたの」
その台詞に谷折は顔を上げ、圭史は微妙に嫌な顔をしたのを見て、美音は続けて言う。
「あ、でも、ちゃんと断ったから」
それにガクッと肩を落とした谷折に美音は苦笑した。
 微妙に気まずい沈黙が漂った。

コーヒーカップにかけた指を眺めながら、まるで独り言のように圭史は言葉を紡いだ。
「……いつもは、化粧してなかったっけ?」
「あ、うん。バイトしてる時だけ薄く、ね。……変かな?」
少し不安げに見つめる美音。圭史はずっと目線を俯かせたままだ。
「いや、そんなことはないけど」
そんな二人の様子を4個目のドーナツを口に運びながら見ている谷折。
 圭史はそんな谷折の事など視界に入っていないようで言葉を続ける。
「ここのバイト、戸山も知ってんの?」
「え?」
不思議そうな顔をした美音の声を聞いて、谷折が口を挟んだ。
「あ、さっき……」
だがその台詞の続きは圭史の蹴りによって阻まれた。
痛みに耐えて無言になる谷折に圭史は素知らぬ顔でコーヒーを飲んでいる。
「恥かしいから誰にも言ってないんだけど、妹がばらしちゃったから知ってるんだ。
前に二人で冷やかしに来たから」
「そうなんだ。伊沢は?知ってんの?仲良かったよな?」
「あ、うん。すんごく仲いいよ」
それには満面の笑顔で答えた美音。
「伊沢ってどんな子?俺は大人しい感じの子だと思ってるんだけど。谷折は?」
そう言って隣の谷折に顔を向けた圭史。
谷折ははっとした顔をすると椅子から立ち上がった。
「持ち帰り用のドーナツ買って来る」
背中を向けてさっさと行ってしまった谷折に、意地悪そうな笑みを浮かべた圭史だった。
「いさちゃんはおっとりしたタイプに見えるんだけど、考え方はしっかりしてて、安心して甘えられるお姉ちゃんって感じかな。普段は言わないだけで、自分の意見ハッキリ持ってるタイプだし」
「へー」
「瀧野くんはどんな風に思ってるの?」
「いや、思ってるとか以前に、川浪達の方に目が行く事が多いからなぁ。伊沢はどっちかって言うと大人しくて目立たないから」
「ああ、そっか」

 そうして、谷折がドーナツを買って戻ってきた頃には、いつもの様子と変わらない二人の姿があった。さっきまであった、ぎこちなさとも感じられる二人の間の空気は、どこかいつもと違っていたのだ。



 ミスタードーナツからの帰り道、二人に合わせて美音は自転車を押しながら歩いている。
「へー、それで谷折君泊まりに来てるんだ」
「そー。今頃家でカレシと楽しんでるんじゃない?ベッドの中で。あ、別にどこでも出来るか。ソファの上でも絨毯の上でも好きな所で」
「……ぇ?!」
美音が動揺を見せた次の瞬間、圭史は諌める様に谷折を殴り美音に言った。
「こいつの言う事は気にしなくていーから」
「なんだよ、別に変な事じゃないじゃないかよ。恋人同士が一つ屋根の下でする事と言ったら……」
美音は二人から視線を外して俯きながら自転車を押している。
「お前、廊下で寝たいか?」
じろり、と目を向けた圭史の迫力に、谷折は口を噤むしかなかった。
「滅相もございません……」
そして、美音に目を向けると、どんな顔をしたらよいのやらと困っている姿に思わず微笑する圭史に、谷折はへの字口になっていた。

 圭史が送る時は曲がる場所にまで来ると、美音は笑顔を向けて言った。
「あ、今日は自転車だから、ここでいいよ。ありがとう」
「うん、気をつけて」
圭史がそう言うと、斜め後ろに立っている谷折が口を開く。
「変な人に襲われそうになったら大きな声あげるんだよー」
「うん、わかったー。あ、瀧野くん、今度数学教えてもらいに行っていい?」
「うん、いつでもどーぞ」
「瀧野塾先着1名さま限り」
そんな冗談を少々ぶっきらぼうに言った谷折を容赦なく蹴る圭史だった。